里美の憂鬱

えいこ

4.
 山下公園に着くと、少し陽が翳りはじめていた。夏の陽射しも、西に傾く頃にはあっけなくその勢いを落としていく。こっちの方まで足を伸ばすのは久しぶりだ。海から吹いてくる風が気持ちよく、たまには馬車道から離れるのもいいものだなと思う。
 氷川丸の方へ向かって歩いていくと、赤い靴を履いた女の子像の近くのベンチに、里美がしょんぼりとすわっているのが見えてきた。自然と急ぎ足になる。
「里美ちゃん、久しぶりだね!」
 はっとしたような顔をこちらに向けると、彼女は私を見あげ、じっと見つめ返してくる。目がうるんでいるような気がして、どきっとした。泣いていたんだろうか・・・・・・。
「先生・・・・・・」
「待たせたね」
 私は隣りにすわった。
「すみません。わざわざ来てもらって。お仕事の邪魔したんじゃないですか?」
 俯いたままで言う彼女には、いつもの勢いのよさも、はじけるような明るさもなかった。
「どうしたの? 何かあったのかい? 何か相談?」
「いえ別に。私は元気です。話したいことはあったけど・・・・・・」
 しかしちっとも元気そうには見えない。
「話したいことって?」
「この間、桜木町で殺人事件があったんですけど、先生ニュース見ました?」
 まったく思ってもみなかった方向の話題を持ちだされ、しかし私は、なぜか少しばかり安堵した。
「うん。でもここのところ締め切りに追われていたものだから、テレビも新聞もあまり見てないんだ。今日ちょうどその話を隣の人から詳しく教えてもらったところだよ。まだ犯人は捕まっていないみたいだね」
「そうなんです。簡単そうに見えた事件だったんですけどね」
 話しながら、里美はいくぶん元気を取り戻してきたようだ。さっきまでの蚊の泣くような声が、次第にいつもの調子に戻ってくる。ほっとした。元気のない彼女は苦手だ。
「簡単そう?」
「はい、うちの事務所の人たちがそう・・・・・・」
「君の事務所の人が?」
「殺された高橋雄太さんの奥さんのお母さんが、うちの事務所に依頼に来られたんですよ。警察、どうも奥さんを犯人だと思っているみたいなんです」
「そうか。でも奥さんは、警察に発見された時は意識を失っていたんでしょう? そんなふうに聞いたけど」
「そうなんです。でも玄関のドアには鍵がかかっていたし、ベランダの鍵は閉ってなかったようですけど、5階建てマンションの2階なんです。ご主人、奥さんとは普段から喧嘩が絶えなかったそうですし、ご主人はアルコール依存症で、DVもあって、奥さんはいつも殴られていたらしくて、だから奥さんが思いあまって首を絞めて殺したんだろうって、警察はそう考えてます」
「それで、奥さんのお母さんが弁護を依頼してきたの?」
「はい。でも奥さんはやってないって。ずっと無実を主張してるんです。その時もご主人からひどい暴力を受けてて、自分は気絶してたって。だから何が起きたのかは自分では解らないって、奥さんはそう言っているそうです。
 うちの担当の先生、嘘をついているようには見えないって、そう言っていました。殴られた痣や怪我の写真を見せてもらったけど、本当にすごいですよ。あんな暴力を日常的に受けていたら、確かに殺したくなっても仕方ないと思うけど」
「ふうん。じゃあ他に犯人がいるとしても、玄関に鍵がかかっていたなら、ベランダから入ったということ? 2階ならそうむずかしいことではないよね。そのご主人、誰かに恨まれていたということは? 確かご主人、消防士だったよね」
「はい消防士です。外での評判はいいんですよ。子煩悩だし。消防署でも評価は悪くないそうです。でも、非番の日は昼間からお酒を飲んでいるらしいですけど。お酒を飲むと暴れて、暴力亭主になるみたいです。奥さん、お気の毒ですよね。それで奥さん、アルコール依存症の相談をするために、アラノンの会っていうのに入っていたそうです。消防士って、ストレスがすごく強いんですってね。私も今回の事件ではじめて知ったんですけど」
「うん。聞いたことあるよそれ。彼らの仕事って、普段は訓練と待機で、何もなければ一番いいんだけど、いざ火事が起これば、時間も関係なしに駆けつけなければならない。そして現場はたいてい悲惨。亡くなった人がいなければいいけど、火の中に誰かいると解っていても助けられないこともある、目の前で燃えて死んでいく人を見ることもある、辛いよね。彼らの出番というのは、いつだって事が起きた後なんだ。何もない普段とのギャップが激しいよね」
「そうなんです。それでストレスがものすごく強いから、お酒とか賭けごととか、覚せい剤とか女の人とか、いろんなことに逃げてしまう人が多いんですって。日本はまだそういうところが遅れていて、組織として充分なケアができていなくて、自己管理になっているらしいです」
「里美ちゃん、ずいぶん勉強したんだね」
「はい。私が直接この件を担当しているわけじゃないけど、事件の背景というか、犯人を捕まえるには、やっぱり被害者のことをよく知っておかないといけないと思うし、現場がうちから近いし、なんか気になっちゃって、けっこう調べたんです」
「そうか。しばらく会わなかったけど、君もずいぶん頑張っていたんだね」
 眼の前にいる彼女が、よく知っていた女の子から、大人へと成長していく過程に居合わせた気がして、なんだかやけに嬉しかった。
「で、事件としてはどうなの? むずかしいのかな。その奥さんが犯人ではないという証明はできそうなの?」
「どうなんでしょうね。担当の先生は、奥さんが犯人ではないと思っているけど、唯一の目撃者が2歳の娘さんだし。あとは他の部屋で寝ていたという要介護4のボケたおじいさんがいるだけで、これといって動機を持っていそうな第三者が捜査線上に浮かんでこないんですよね。
 絞殺する時に使われたはずの紐状の凶器もまだ発見されてないし。首についている痕からすると、確かに背後から絞められたものだという鑑識からの報告はあるそうなので、奥さんの言うことも、信憑性がないわけじゃないんです。
 はじめは簡単そうな事件て言われていたんですけど、結局はなんにも進んでいないんです。警察は奥さんが犯人だろうって、それしか考えられないって。で、もう1週間も拘留されているんですよ。それで先生にもお話聞いてもらおうかって思って」
「ふうん、そうだったんだ。悪かったね、すぐに気づかなくて。君が来てくれた時、ちょうど電話中だったものだから、人見さんに代わりに出てもらったんだ。彼女、3ヶ月ほど前に隣りに引っ越してきたんだ。家を改築するので、その間の仮住まいなんだって。君に紹介すればよかったね」
「いえ、別にいいんですけど・・・・・」
 ひとみさん・・・・・・。もう名前で呼ぶほどに親しくなっていたんだ・・・・・・。
 いや、そんなことを考えるのはもうよそうって、さっき決めたばかりじゃないの・・・・・。
「里美ちゃん、お昼は食べたの? もしかして、まだなんじゃない?」
「あ・・・・・、いえ、いいんです。別に、どうってことはないですから。食欲ないし」
「やっぱり変だよ里美ちゃん。これから食事に行こうよ。話はそれからゆっくり聴くから。ね?」
「なんでもないったら! それに先生、もうお昼、食べたんでしょ」
 なんだか苛立っているような、手がつけられない様子に、私はたじろいだ。
「いずれにしてもどこか行こうよ。このままずっとここにいても仕方がないだろう?」
 私は立ちあがって、彼女の腕を掴んだ。そして、嫌がる彼女を無理やり立ちあがらせ、歩きはじめた。
「どこがいい? 久しぶりだし、君の行きたいところに行こう」
「・・・・・じゃあ、山手十番館」
 観念したと見えて、小さな声で里美は言った。
「よし、行こうか」
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