御手洗が、この馬車道のアパートに舞い戻ってきたのは昨夜のことだった。ひとりには広すぎるこの部屋で、例によってわたしが近所で買ってきたコンビニ弁当を食べていると、突然ドアが開き、彼が現れたのだ。
「やあやあ石岡君! やはり日本の秋はいいね。果物は美味しいし、最高だ!」
わめきながら、御手洗は両手を大きく広げたまま、ツカツカと室内に入ってきたのだ。
呆気にとられ、私はなかばおびえたように、彼の挙動を見ていた。何しろ戻るという連絡はいっさいないし、ノックもなしに入ってこられたものだから、てっきり精神異常者か何かが部屋に闖入してきたものと私は思ってしまった。
「おや? 何を食べてるんだい、石岡君」
人の動揺はものともせず、御手洗は訊いてくる。そして不思議そうに私の手もとを覗きこんでくる。
「何って、コンビニ弁当だよ。それよりいつ日本に帰って来たんだ? 連絡くらいしてから来てくれよ。びっくりするじゃないか!」
そう口では抗議しながらも、実際のところ私は、再会の喜びを胸のうちで噛みしめていた。数年ぶりに見る友の顔は眩しいほどに快活で、底抜けの自信に満ち、素直に喜びを表現するのは悔しいほどだった。
「どこかへ食事に行こうじゃないか! そんなものは冷凍庫に放り込みたまえ!
ちょっと時間は遅いが、なに、探せばいくらでも開いている店はあるだろう」
やや意味不明な部分もあるが、食事に出かけるというのは嬉しい申し出だった。ひとりでは外食も自炊もやる気が起きず、最近の夕食は、冷たいコンビニ弁当ばかりだったからだ。この界隈で手に入るコンビニ弁当は全種類食べ尽くし、いまなら目隠しで食べても、これはどこの何々弁当だ、と百発百中で当てることができる。
「じゃあ行こう。外は少し冷えるから、何か羽織ってくるといい」
御手洗は妙に優しいことを言った。
外に出ると、御手洗の言うとおりでちょっと寒い。つい最近まで猛暑に喘いでいたというのに、もう秋風が吹く中に私は立っている。時が経つのがあまりに早すぎて、愕然とするほどだ。そしてこの傾向は、年齢を重ねるごとに顕著になる。
だが、いま私の隣には御手洗がいる。横浜の街を彼とふたり肩を並べて歩いている。それは懐かしくて、ちょっぴり照れくさくて、正直に言えば幸せな気分であった。
知っている店を思い出したという御手洗の案内で、一軒のこじんまりしたイタリア料理屋に入った。いかにも彼が好きそうな、全然気取りのない、家庭的で暖かい雰囲気のする店だ。
運ばれてきた料理をゆっくり楽しみながら、私たちは互いに近況を報告し合った。
御手洗は始終ご機嫌で、いま取り組んでいる研究のことや、異国での生活のことを身振り手振りを交えながら、おもしろ可笑しく語った。私の方もポツリポツリとではあるが、仕事や生活のことを話した。そのひとつひとつを、彼は親身になって聞いてくれ、的確なアドバイスなり、相づちを打つなりしてくれた。これまでたまに御手洗から電話があっても、事務的な用件を言いつけるばかりで、私の話など取り合ってはくれなかったから、私は嬉しくてつい話し込み、それにともなってワインの摂取量も相当なものになった。
「ところで石岡君、さっき部屋に入った時、あまり元気がないように見えたけど、食事なんかはちゃんと摂っているんだろうね?」
食後の紅茶を飲みながら、御手洗がふいに言った。少しトーンを落として尋ねる彼の声は、妙に真剣だ。
「うん、心配しなくても大丈夫だよ。……でもそんなにぼくは元気なさそうに見えた?」
そう言うと、御手洗は黙って頷いた。私は少し驚いた。実は里美にも同じようなことを言われたばかりだったからだ。
あれは三週間ほど前、何ヶ月かぶりに里美と馬車道十番街で待ち合わせた時のことだ。少し遅れてやってきた里美に「あーなんだか先生、元気ないですねー、顔色悪いし、ちゃんとご飯食べてます?」といきなり言われたのだった。特に体調も悪くなかったので、そんなことを言われるとは思ってもいず、私は面食らい、反対にこう訊き返したものだ。
「え、朝も昼もちゃんと食べてるし、そんなことないと思うけど、そんな元気なさそう?」
「うん、はい、ちょっとですけどー」
里美はそう言っただけで、その時はそれ以上話が発展しなかったので、たいしたことはないのだろうと思って忘れかけていたのだ。しかし、久しぶりに出会ったふたりもの人間に元気がないと言われるのなら、気にするべきなのかもしれない。否定しても仕方ないが、私はもういい年齢だ。健康管理に留意すべき時はもうとっくに来ている。規則正しい生活に、適度な運動、栄養バランスのいい食事、それが必要なのかもしれない。だが実際のところそれらを充分に満たしても、元気溌剌とはいかないだろうな、とも思う。何故なら、その根幹ともいうべき私の気力、それが日々衰えていくのを感じているからだ。
実際、静まり返った広い部屋で毎晩もそもそコンビニ弁当を食べていると、気が滅入ってくるのは避けられない。まるで日めくりカレンダーの一枚一枚を剥がすように、日々失われていく自分の気力を感じる。外食や自炊でもすれば気が紛れていいのかもしれないが、その意欲自体がまるで湧いてこない。
時には部屋が静かすぎるせいでこんなに気分が落ち込むのかなと考え、テレビをつけたりもしてみるのだが、機械の中の歓声や笑い声には妙なそらぞらしさを感じ、かえって逆効果と思って消してしまう。
そんな日々を延々と送れば、それは顔色も悪くなるというものだ。たぶん私は鬱病になりかかっているのだ。御手洗が鬱病にかかったところは何度も見たが、まさか自分にお鉢が回ってこようとは、私は考えてもみなかった。
せめてもっと里美と会う機会が増えれば、彼女の元気をもらって少しはましになれそうな気もするのだが、彼女は司法試験の勉強で忙しく、それも叶わない。元気がないと指摘されたその日も、一時間ほど一緒にお茶を飲んだだけで、彼女はあわただしく帰っていってしまった。
この調子だと、里美が私のそばから去っていくのもそう遠いことではないだろう。
御手洗が去り、里美が去り、冷えきった部屋に私はひとり捨ておかれるのだ。その時、はたして私の気力はどれほど残されているのだろう。死人のごとき容貌の私がひとり、薄暗いアパートの一室をとぼとぼうろつき廻る、そんな光景が一瞬思い浮かんで、ぞっとした。
「……ぼくが何故、ここに戻ってきたかわかるかい?」
御手洗がじっと私の目を見つめ、尋ねている。すっかり酔いがまわり、いつの間にか私は、もの思いに耽溺してしまっていたようだ。だが、目の前の彼はほとんど素面で、ただじっと私を見ている。その視線を受けているうち、ひとりだけ勝手に酔っぱらい、真っ赤な顔をした自分が馬鹿みたいに思えてきた。浮かれているのはいつも私だ。里美と会っても、御手洗といても。
「何故戻ってきたかだって? さあ、全然わからないな。でもなんにしろ、どうせすぐに君は向こうに帰ってしまうんだろうから、知らなくても全然さしつかえないよ」
酔いにまかせて、私はついそんな子供じみた憎まれ口を叩いてしまった。だけどその時、元気がないのはもとはといえば君が私を捨ててスウェーデンなんかに行ってしまったせいじゃないか、と責めたい気持ちが湧いたので、そんなふうに言ってしまったのだ。
「確かにそうかもしれない。明後日にはぼくは、もう日本を発たなければいけないからね……」
「そらみろ!」
御手洗の声は少し悲しそうに聞こえたが、私はかまわなかった。
「でも、石岡君……」
「ごちゃごちゃ言ってないで飲もうよ御手洗! 今度会えるのはまた何年も先なんだろうからね。いまは楽しもうぜ!」
すっかり気が大きくなってしまった私は、御手洗に向かってグラスを軽く持ちあげてから、残りのワインを一息に飲んだ。御手洗は少し困惑した表情のまま、それでも紅茶のカップを手に取り、それを少しだけ飲んだ。
私はそれから後もさらにグラスを重ね、やがて前後不覚に陥った。御手洗に抱えられるようにして馬車道を歩きながら、なおも彼に悪態をついたような気もするが、よく憶えてない。そして御手洗が何故馬車道のアパートに突然戻ってきたのかも、結局わからずじまいだった。
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