石岡和己のダンス

優作

7.
「あれ?  もう来たの?」
 長身の男が振り向き、おどけた調子で言った。そして英国紳士のような優雅な手つきで、帽子を脱いでみせた。その顔──。いままさに殴りつけようとした私の激情を急速に冷えさせ、雲散霧消させたその顔──。
「御手洗!」 
「あはは、石岡君、驚いた?」
 いたずらっぽい表情を満面に浮かべ、あっけらかんと御手洗は言った。
 まさか──、御手洗がやったのか? その手に下げた凶悪な武器で里美を! 混乱しきった私は、横たわる里美の体と、御手洗の顔とを交互に見つめる。すると私の目の前で、額から血をたらした里美の上半身が、ゾンビのごとくにムクッと起きあがり、
「先生、本当にごめんなさい」
 とペコリと頭を下げた。
「やっぱり、やりすぎですよー御手洗さん」
 さっぱりわけがわからない。私は、いまだ血濡られたままの里美の顔を、まじまじと見つめる。里美は申し訳なさそうな顔をしている。
 私は里美と御手洗に一杯食わされたのか? 小幡さんも含めて、全員が私を騙していたのか? しかしその里美の血は? 御手洗の凶器は? それはいったい何なのだ。そこへ、小幡さんが息を切らせながら走ってきた。
「あっ、里美! あんた何ともないの?」
 里美を見て、ひどく驚いている。演技とはとても見えない表情。とすると小幡さんは、私を騙した一味ではないということか。ということは、里美はやっぱり男好きということになるのか……? いや、ビルからは御手洗と一緒に出てきたのだ。とすると御手洗が里美の恋人……? わけがわからない。なんだか体が疲れていて、頭がうまく働かない。
「うん、私は大丈夫なんだけど……」
 里美は心配そうに私を見ていた。
「でも、そのおでこの血は……?」
 小幡さんが里美に訊いた。
 そうだ。その血はどうしたのだ。痛くないのか。たくさん出てるぞ。
「これは……」
 里美は、御手洗の方に視線を送った。その視線を目で追った私は、ふたたびあ然とさせられ、続いてがっくりと地面に膝をついてしまった。里美が見ていたもの、それは一般の家庭でよく見られる、あのケチャップのプラスチック容器だった。御手洗はその首の部分を掴んで、手にぶら下げていた。そういうふうにして持てば、ブラックジャックに似てなくもない。そうなのだ、私は単なるケチャップの容器を、里美を怪我させた凶器と思い込んだのだ。暗がりだったとはいえ、見間違えにもほどがある。
 そして里美の額の血は、もういうまでもなくケチャップの血のりなのであった。いよいよ老眼鏡の世話になる時が来た。
「さあ石岡君。余興は終わりだ、アパートに帰ろう」
 私を立ちあがらせながら、御手洗が楽しげに言った。
 なにが余興だ! 私は相当頭にきていたが、全然事態が飲み込めなかったせいと、里美が無事で、しかも男好きじゃなさそうだったことにホッとしてしまって、怒るタイミングを逃し、黙って御手洗とともに歩き出した。

 道すがら、里美と小幡さんに、このたちの悪いドッキリのからくりを聞いた。今朝、里美が私宛にかけた電話を、何故か早起きしていた(時差のせいだと思われる)御手洗が取ったのが、そもそもの発端である。
 最近私に元気がないことを心配していた里美が、それを御手洗に相談し、そこで里美が、何か先生を元気づける計画を考えるから、御手洗さんも協力してっ、と頼んだのだそうである。
 何故御手洗が里美に協力を約束したのかはよくわからない。普段の御手洗なら、絶対に引き受けるとは思えない。ひょっとしたら、昨夜レストランで私のことを気遣ったばかりだったから、引き受けざるを得なかったのかもしれない。ただその時点では、御手洗が乗り気でなかったのは確かのようである。
 そして里美が、その友人の小幡さんと考え出した計画が、「里美が男好き!?」計画である。当初の筋書きはこうだ。まず小幡さんが、里美の男好き疑惑により、私を部屋から連れ出し、「M」の見える喫茶店に待機させる。一方、電話で待ち合わせた場所にて落ち合った御手洗と里美は、「M」のあるビルの裏口からこっそり入り、店からの客とホステスを装い、表に出てくる。
 そして私と小幡さんがふたりを尾行していると、御手洗が里美に暴力をふるいだす(演技)、そこで私が里美を救出する、すると私に元気が出る……、というまあ気持ちはわかるが、かなり無理のある計画だ。
 おそらくこれは、私を元気づけるための計画が、「御手洗さんに逢いたい(はぁと)」計画に変わったせいだと思われる。たぶん特に小幡さんの影響力が強かったと思われるのだが……。
 ともかく、計画は実行に移された。だがここで問題が起こった。もちろん御手洗である。最初は全然乗り気じゃなかった御手洗だが、計画が進むにつれて徐々に興が乗ってきて(腕がちぎれたと昔私を騙したこともある)、つまり楽しくなってきて、「もっと本格的にやろう」、と里美に持ちかけた。
 血のり用のケチャップを買ったり、小幡さんに相談もせずに、携帯電話で里美の危機を私に告げたりしたのは、すべて友人の悪のりである。

 説明を聞きながら、御手洗にせめて一言ぐらいは文句を言ってやろうかと思ったのだが、彼はすたすた先に行ってしまったらしく、もう姿が見えなかった。
「でも男好きでなくてよかった……」
 思わず私は、声に出して呟いてしまう。そのことに安心したせいで、里美と小幡さんに対する怒りも、全然湧いてはこない。
「やっぱり私が男好きだと嫌ですかー?」
 私の呟きを耳ざとく聞きつけ、里美が言った。
「えっ、それはそうだよ」
「じゃあホステスはー?」
 何が楽しいのか、目を輝かせて私に訊く。
「それも……嫌だ」
「どうしてですか? 綺麗だし、格好いいじゃないですかー。お金だってたくさんもらえるし。この服だってお金持ちの家のコから借りたんですよ。私もこんな洋服欲しいなー」
 すねたふうにそう言って、里美は私の目をじっと見た。
 思わずどぎまぎしてしまう。高級な洋服に身を包み、化粧も派手めにした里美は、完全に成熟した大人の女性を思わせ、近寄りがたいほどに綺麗だったからだ。この様子なら、本当にホステスになっても成功は間違いないと思われた。
「……でも、……嫌だ」
「こら里美、あんまり先生を困らせちゃダメでしょ」
 小幡さんが叱った。
「はーい」
 里美は元気よく手を上げて、無邪気に返事をする。どうもいつも見ている里美と違って、少々子供っぽい様子だ。そばに小幡さんがいるせいだろうか。
「私がちゃんと里美を見張ってますから、心配しないで下さいね。石岡先生」
 小幡さんは、頼もしい言葉を私に言ってくれた。こういった保護者的な態度が、里美を安心させているのかもしれない。
「あ、そう言えば君たち、喧嘩してるんじゃなかった?」
 私は言った。『パロサイ・ホテル』の事件の時、里美は確かに言っていた。小幡さんに男好きと誤解されてて、避けられていると。あれからまだ三ヶ月ぐらいしか経ってない。
「やだなーセンセー、そんなのとっくに仲直りしてますよー」
 笑いながら里美は、ばしっと私の背中をたたくのだった。
「あ、そうなんだ。ふうん」
 女同士の友情というものが、どういうものかは知らないが、そんなものかなとも思う。だが、この仲直りのおかげで私はひどい目にあった。
「それにしても小幡さんは演技上手いんだね、すっかり騙されちゃったよ」
 私は言った。訪ねてきた時の深刻そうな様子など真に迫っていて、とても演技とは思えなかった。たいしたものだと素直に思う。
「ごめんなさい、石岡先生」
「小幡さんは何やらせても凄いんです。なんたってセリトスの御手洗潔って言われてるぐらいですからね」
 里美が隣で言った。ちょっと自分も得意そうなのは、やはり小幡さんを尊敬しているからだろう。
「でも、石岡先生のあの剣幕にはびっくりして、私泣きそうだった」
小幡さんが言った。
「え、あのって?」
「忘れたんですか、私の肩を揺さぶって、後輩はもう尾行してないのかって大声で……」
「ああ、あのこと……」
 思い出すだけで顔が赤くなる。とにかく必死だった。小幡さんが思わず計画をばらしてしまうぐらいだから、きっとすごく追いつめられた顔をしていたのだろう。里美を悲しい目にあわせるぐらいなら、自分などどうなってもかまわない、あの時は本当にそう思った。
「……あ、そうだ、里美ちゃん、ぼく宛の電話って、あれ何の用件だったの?」
 話題を逸らしたくて、私は言った。だが、本当に気になっていたことでもある。
「電話?」
「朝かけてきてくれたんだよね」
 そう言うと里美は、小幡さんの顔をちらと一瞬見てから、
「……別に大した用事じゃないんです、ただ元気かなーって」
 と言った。

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