アパートの前まで来ると、御手洗が待っていた。ポケットに手を入れたまま突っ立っていて、ゆるやかな秋の風に、ただじっと吹かれていた。風が心地よいのか、彼は嬉しそうな微笑みを私に向けた。
「それじゃ、私たち帰ります」
私の背後で、小幡さんが言った。
「あっ、気づかなかった。ごめんね、ここまでつき合わせちゃって」
私は言った。道中ずっと説明を聞いていたので、気が回らなかったのだ。小幡さんの家はどこか知らないが、里美のマンションはだいぶ方向が違う。
「全然大丈夫です。それじゃ失礼しまーす」
ふたりは御手洗と私にぺこりと頭を下げると、意外なほどあっさり帰っていった。
特に小幡さんなどは、御手洗を質問責めにしかねないと私は内心心配していたのだが。
「さあ、行こう!」
御手洗は機嫌よく言うと、エレベーターに向かって歩き出す。その様子を見ていると、つい数時間前まで鬱状態だったのが嘘のようだ。あ、そうか、あれは嘘だったのか、とそう合点がいった。
里美たちの計画を私に悟らせないため、彼は鬱のふりをしていたのだろう。すっかり騙された。演技がうまいのは小幡さんばかりではない。
「あの鬱病は芝居だったのか」
五階に到着し、部屋のドアを開きながら私は御手洗に言った。照明はきちんと消してから出かけたので、室内はもちろん真っ暗だ。鍵を開けた私が先頭で玄関に入り、蛍光灯のスイッチを手探りする。だが返ってきた御手洗の言葉は、意外なものだった。
「芝居なんかじゃない。自分の生まれた日も忘れて、コンビニエンス・ストアの冷えた弁当を食べている、そんな青白い顔の友人を見れば、誰だってあんなふうになるさ……」
「え?」
言いながら私は、なかば習慣化した行動で、室内灯のスイッチを入れた。
「ハッピーバースデー! 石岡せんせー!」
灯りがともると同時に、はじけるような黄色い声が耳に押し寄せてきて、私はびっくり仰天した。すぐ後ろにたくさんの人の気配がある。
楽園──。
振り返った私の脳裏を、何故かそんな言葉が駆けめぐった。
「ほら、君の大好きな若い女性たちがいっぱいだよ」
皮肉っぽく御手洗が言う。だが、室内の光景に完全に目を奪われてしまっていた私の耳には届かない。
まるで、天使の国に迷い込んでしまったような錯覚を憶えた。陰気だった私の部屋は、折り紙やリボン、風船などで色鮮やかに飾りつけされ、見違えるほどに明るく、華やかになっている。テーブルには手作りと思われる大きなケーキが置かれ、その上にはカラフルなロウソクが何本も立てられている。そして何よりも私が仰天し、心を揺さぶられたもの、それは部屋を埋め尽くさんばかりにいた、大勢の若い女性だった。
「いったい……」
私は言葉を失った。女性たちはみな笑顔で、うろたえる私を見つめている。みな二十歳ぐらいに見える。その目がじっと私に注がれて、女子大で講演をしたならこんなふうだろうか。どぎまぎと落ち着かなくて、私はあわてて目をふせた。
「ほとんどがミス研の子なんですよ」
その声に振り返ると、帰ったはずの小幡さんが、いつの間にかすぐ後ろに立っていた。里美も一緒だ。
「石岡先生のお誕生日会やりたいって言ったら、みんな集まってくれたんです」
小幡さんは続けた。
そうだったのだ。今日は十月十日、昨日の十月九日は私の誕生日だった。完全に忘れていた。
「先生ごめんなさい。昨日、私お祝い言うのすっかり忘れてたんです、いろいろ忙しくって。あ、言い訳ですー、ごめんなさい!」
里美が言った。
「謝らなくていいよ、ぼくだって忘れてたんだから」
私は、夢見心地のまま言った。自分の身にこんなことが起こるなんて信じられない、そんな気持ちだった。
「今朝、それで謝りとお祝いの電話を先生にしたんです。そしたら御手洗さんが出て……」
その一本の電話から、今回の大騒動が始まった。それが私への誕生祝いの電話だったとは、夢にも思わなかった。
あっ、とその時突然思った。御手洗は、私の誕生日を祝いにわざわざ北欧から来てくれたのか! やっとそのことに気づいた。連絡せずにいきなり現れたのも、私を驚かせるビックリ・パーティのつもりだったのだろう。それなのに、私は全然気づかなかった。
「ぼくが何故、ここに戻ってきたかわかるかい?」
御手洗は、そのことを気づいて欲しくてレストランでそう尋ねていたのに、私は思い出すどころか、憎まれ口をたたいてしまった。だから御手洗は、結局帰国の理由を言い出せずに……。
御手洗に悪いと思うと同時に、胸にじーんと暖かい思いがあふれてきて、いっぱいになった。そういえば昨夜の御手洗は、変に優しかった。あれには、こんな意味あいがあったのか。
礼を言おうとあわてて振り返ったが、御手洗の姿はすでになかった。大勢の女性に恐れをなしたのだろうか。 |