「意外に早く現れましたね。いよいよですよ石岡先生。すぐにここを出て、里美を追いかけましょう!」
伝票を握りしめると、小幡さんは勢いよく立ちあがった。だが私はというと、立ちあがるどころか、床に倒れ込みそうな気分と闘っていた。
もしも里美が本当にそういうお店でバイトしていたとしても、学費のために仕方なくで、少しでもいいからちょっと憂いの表情をたたえてビルから出てきたのなら、立ちあがり、里美を追うこともできただろう。だが、あんなにはしゃいで楽しそうな里美を見てしまったいま、私に何ができるというのか。あれはもう、好きでやっているようにしか見えない。
目の前が暗くなり、気が遠くなる思いがした。私が感じた悪い予感は見事的中したわけだ。いつもそうなのだ。悪い予感は必ず実現する……。
全身を虚脱感が襲う中、せめて何かしらの救いを見いだそうとして、あの男は里美の恋人なのだと考えてもみた。ホステスが客と恋に落ちることもあるだろうから、その可能性も十分ある。帽子の男は背も高いようだし、お似合いのふたりに見えなくもない。何よりも里美はすごく楽しそうだ。一生懸命に男の顔を見あげ、話している姿はいじらしくも可愛らしい。
きっとそうだ……。あんなに楽しそうなのだから間違いない。彼らは恋人同士で、愛しあっているのだ。そう思い、見ていると、本当にそういうふうに見えてきて、私は少し気分が楽になった。
里美がホステスをやっていたことはショックだったが、彼らが恋人同士ということなら、男好きよりはずいぶんましだし、いまは辛いが、いつかは受け容れることができそうである。昨夜小幡さんが見たという、里美と夜の街に消えていった男性もこの彼なのだろう。少しだけ穏やかな気持ちを取り戻し、そう考えていた時、
「あっ、よく見ると昨日のと違うオトコだわ!」
小幡さんが、私にとって致命的な一言をあっさり言った。
脳天に、とどめの一撃をがつんとくらったような衝撃に、私は倒れ込みそうになる気分を必死でこらえていた。昨日と違う男──。それはつまり複数の男性と、そういう関係にあるということか……。それはもう、恋人同士などではあるはずもなく……。
ああ、ゆめ……。すべてはゆめだ。呪文のようにそう繰り返しながら、うつむいたままで私は空になった紅茶のカップを見ていた。このままテーブルに突っ伏し、頓死できたならさぞやスッキリするだろうな、と考えていた。
もう間違いない。小幡さんの言うとおりだった。里美は「男好き」なのだ。あんなに楽しそうな里美の顔は、はじめて見るような気がした。
「先生、早くしないと逃げられちゃいますよ!」
小幡さんはそうせかすが、私は、ただ一心にそれを待っていた。どこにでも行ってしまえばいい。どこにでも……。立ちあがるどころか、呼吸する気力もなくなった。
「里美がだめになっちゃってもいいんですか!?」
小幡さんは、叱りつけるような調子で言った。
「……よくない」
かろうじてそれだけは言った。だが彼女が好きで選んだ道なら、それをとめることなどできるはずもない。
「それなら行きましょう」
小幡さんに手を強く引っ張られ、私はやむなく立ちあがった。
うつむいた顔を上げると、周囲の客たちが興味津々といった様子で、われわれのやり取りを見ていた。いかがわしい街で言い争う中年男と女子大生、彼らはどんなふうにわれわれの関係を推量するのだろう。小幡さんに迷惑がかかる、取りあえず店を出ようと思った。きっともう里美たちは、もう遠くへ行ったことだろう。
支払いをすませ、店を出ると、すぐに小幡さんは、里美たちが行ったと思われる方向に向かってズンズン歩き出した。まだ追跡を諦めていない。その後を私は、とぼとぼと、意志のない者のようについていく。
男好きの何が悪い、私だって女性は好きだ、アイドルだって大好きだ、などと自分に言い聞かせてもみるのだが、悲しみは一向におさまらない。むしろひどくなる一方だ。
もともと中心地から外れたところにあった喫茶店から、さらに遠ざかる方向にと小幡さんが歩いていくので、だんだんと人通りはなくなり、静かになっていった。やがて、おそらく昼間は賑やかなのだろうが、軒並み店が閉まっていて、街中にあっても閑散とした一帯に出た。裏通りのせまい場所なので、車の通行もまったくない。
そのあたりまで来ると、小幡さんは足を停めた。里美たちの姿は、やはりもうどこにもない。さすがに諦めるのだろうと思ったが、小幡さんはなおも周囲を見廻している。
「あれー? いませんね」
そんなことも言う。里美たちを見失ってからだいぶ時間が経っていたし、入り組んだ場所だったので、発見できないのは当然だと私は思っていたが、小幡さんは、里美たちが見つからないことが意外そうだった。よほど見つけだす自信があるのか、それとも私の知らない情報を握っているのか、たぶんその両方だろうと思われた。
その時、携帯電話の着信音が聞こえた。もちろん私は持ってないから、小幡さんのだ。彼女はなおも怪訝そうに周囲を見渡しながら、バッグから電話を取り出した。
「──はい、小幡です。……えーっ! どうして……、あ、は、はい……、わかりました。……すぐ代わります」
「ぼくに?」
いぶかしく思いながらも、私は電話を受け取った。
「石岡君、予想外の事態だ。里美ちゃんが危ない」
いきなり言われた。
「み、御手洗なのか? どういうことだ?!」
「すまない、完全にぼくの失態だ。一刻を争う。彼女を救えるのは君だけだ。頼む!」
「ちょ、ちょっと待て。頼むって、里美はどこにいるんだ!?」
「近くにいるはずなんだが、正確な場所は不明だ。なんとか自力で探し出してくれ。君ならできるはずだ。それと、相手は凶器を持っている可能性が高いから、十分注意してくれ!」
反駁する間もなく、一方的に電話は切れた。何が何だかわからなくて、携帯電話を耳に押し当てたまま、しばし呆然と立ち尽くしていた。
里美が危ないだって? 里美と帽子の男があのビルを出てから、まだせいぜい十分ほどしか経ってない。それなのに、彼女の身に危険が迫っているだって?
一刻を争うとも言っていたな……、とそう思った時、
「大変だっ! 里美ちゃんが危ない!」
私の頭が、急遽フル回転を始めた。里美を見つけ出さなければ。里美の身に何かが起こる前に、早く!
だがこの夜の街で、いったいどうやって彼女の居場所を知る? 闇雲に走り出すか? 里美の名を叫びながら。だが、全然見当違いの方向だったらどうする? それに里美が応えられる状況じゃなかったら? 警察に連絡するか? いやそんな悠長なことをやっている時間はない。
「里美に何かあったんですか……?」
小幡さんが不安そうな様子で訊くが、私は里美のことで頭がいっぱいで、それに答えられる状態ではなかった。
「そうだ! 小幡さん。君の後輩はもう尾行してないの!? してるなら、連絡すれば居場所がわかる!」
私は思いつきを叫んだ。小幡さんの両肩をつかんで激しく揺さぶり、いつの間にか彼女に詰め寄るようなかたちになっていた。
「──び、尾行なんかしてないですよ。だってあれ、嘘なんだもん!」
とつぜん小幡さんは、泣き出しそうな声で、叫ぶように言った。
「うそ!?」
嘘って? どういうことだ──。だが、ゆっくり考えている暇はない。
御手洗の切迫した声が耳に甦る。あの御手洗が、あれほど追いつめられているのだ。何が起こったのかはわからないが、よほどの非常事態が発生したことは間違いない。一刻も早く、里美の位置を特定する方法を見つけださねば……。
私はぐるぐると路上をうろつき廻りながら、必死で思考した。すると、頭の中にパッとある言葉が浮かんだ。何故その言葉が浮かんだのか、自分でもサッパリわからなかった。だが落ち着いて考えれば、それは重要な意味を持つ言葉だったのだ。
「携帯電話だ! 小幡さん、里美の携帯の番号知ってるよね?」
私は叫んだ。まるで脳が、私に黙って必要な情報を検索してくれていたようだ。
「あ、は、はい」
「すぐに電話して! 着信音で居場所がわかるかもしれないっ」
「わかりました」
小幡さんはあわてて携帯電話のディスプレイに向かった。
もしも里美が、車や建物に連れ込まれていたら、いくら携帯が音をたてようが聞こえるはずはない。だが、私は何となく感じていたのだ。里美はすぐ近くにいると。そうだ、御手洗も言っていたではないか、里美はすぐ近くにいると。直感が確信に変わった。
「つながってます!」
小幡さんが叫ぶ。全身の神経という神経を耳にして、私はただひとつの音を探した。思い出す、最後に里美と会った時のこと、「これ羨ましいでしょー」そう言って聞かせてくれたあの着信メロディ、モーニング娘。の「恋愛レボリューション21」。
「どこなの、里美」
「シッ、黙って! ……聞こえる……聞こえるぞ! 近い! ──あっちだ!」
叫びとともに、私は駆け出していた。
里美の着信メロディを確かに聞いた。やはり遠くではない。すぐ近くだ。おそらく目の前、約十メートル先の角を曲がればすぐだ。
路面を蹴りつける自分のひと足ごとがもどかしく、苛立ちを感じた。メロディは聞こえ続けている。里美の携帯電話が、角を曲がってすぐの場所にあることは確実だった……。そして角を曲がり、私は悪夢的な光景を眼前に見た。
里美が路上に横たわっていた。数メートル先で、私の方に両足を向け、仰向けに倒れている。すぐそばに転がる里美の携帯電話は、場違いに陽気なメロディを奏で、アンテナの部分は、まるで彼女の危機を報せるように、しきりに点滅を繰り返している。里美はぐったりした体を路面に預け、首を力なく曲げている。里美の額からは、血液がひとすじ、つと流れ落ちていた……。
里美を見下ろすようにして、長身の男がこちらに背を向けて立ちつくしている。それが先ほど里美とともにビルを出てきた帽子の男だと気づくのに、そう時間はかからなかった。
鈍い街灯の明りの下、御手洗の言ったとおり、男は手にぶらりと凶器と見えるものを下げていた。うり様のその形状は、「ブラックジャック」と呼ばれる、革袋に砂をつめた殴打用の武器に似ている。昔の外国映画で、チンピラがよく持っていたあれだ。砂といえどその威力は侮れず、人を殴り殺すことも充分に可能だそうだ。しかも使用しても音をほとんどたてないし、持ち運びもたやすい。こんな街中で使用するには、まさにうってつけの凶器。それを使ってこの男が里美を──。
「この野郎!」
と自分のものでない声が、私の喉を使って叫んだ。
久しく、いや永遠に失われてしまっていたかもしれない熱くほとばしる激情が、私の全身を突き抜け、噴出していた──。 |