石岡和己のダンス

優作

4.
 「本当に御手洗さんが戻ってきているんですか?」
御手洗が部屋にいることを告げると、小幡さんは興奮した様子で言った。
 私はしまったと思った。小幡さんが、かなりの御手洗ファンだということを思い出したからだ。
「いや……、いたらいいなあって思っただけ……で、……本当はむろんいるはずないんだけどね……」
 私はしどろもどろの言い訳をする。だが、すでに遅かったようだ。目を輝かした小幡さんが立ちあがり、御手洗の部屋を見た。そしてすぐさまドアに駆け寄る。間取りは熟知しているようで、その動きには無駄がない。
「あっ、駄目だよっ。いま具合が悪いらしいんだ」
 私は、あわてて小幡さんの前に立ちはだかった。ほかの時ならまだしも、いま会わせるわけにはいかなかった。
 鬱の原因いかんによっては、小幡さんの襲来によって、御手洗が致命的なダメージを受けるかもしれなかったからだ。たとえそうでなくても、鬱が悪化するのは避けられないだろう。それだけは絶対に阻止しなければならない。
「ひとめ見るだけです。お願い、石岡先生。ちょっとだけ!」
 拝むように私に両手を合わせる小幡さんの目は、すこぶる真剣だ。御手洗のパロディ小説を大量に集めていただけあって、小幡さんの気迫はすごい。こちらが一瞬でも気を緩めれば、押し切られ、御手洗の部屋になだれ込まれるのは確実と思われた。
「一瞬だけ、お願い!」
 強引に私を押し退けようとする小幡さん。これは並み居る御手洗ファンの中でも、相当な強者と見える。苦戦は必至だ。それに相手が女性ということもあって、私は手荒く押し返すこともできない。気がくじけそうだった。そもそも女性に頼まれると、昔から断れないたちなのだ。その性格を見抜かれ、無理難題を押しつけられたことも数知れずある。
 だが、今回ばかりはどうあっても引き下がるわけにはいかないのだ。理由はわからないが、御手洗はいま弱っている。友人として彼を守ることができるのは、この場においては私だけなのだ。
 御手洗の部屋の前で、見せて、いや見せない、の押し問答を延々続けていると、いきなりガバとドアが開いた。
「ああうるさいな、パンダなら上野だよ」
 憮然とした表情の御手洗が、目の前に立っていた。いつのまにか寝巻から、きちんとした外出着に着替えている。鬱病はもう治ったのだろうか。
「御手洗、もう大丈夫なのか?」
「ぼくの心のことを訊いているのなら、いまだ晴れぬままさ。……だけど、ぼくはもう出かけなければいけないんだ」
 憮然とした表情を崩さないまま、御手洗は言った。
「出かけるって、いったいどこへ?」
そう訊いた瞬間、嫌な予感が私をとらえた。
「──えっ! ま、まさかいまの小幡さんの話に、何か事件性があるっていうのでは……?」
 全身に緊張が走った。一見したところ、事件性など何も感じられない相談から重大事件へと発展する場を、私はこれまで御手洗を通じてさんざん見てきた。
 だから、御手洗が私と小幡さんとの会話を自室で聞いていて、その会話の一端から、私などには汲み取れない危険な兆候ともいうべき何かを察知し、それを未然に防ぐべく行動を開始した。そういう可能性は十分あるように思えた。とすると今回の場合は……! 里美の身に危険が迫っている!?
「違うよ。……まあ、全然関係ないってわけじゃないけどね」
 御手洗はそっけなく言った。
「待てよ御手洗。関係ないわけじゃないって、それはどういうことだ?」
「興奮しなくてもすぐにわかるよ。約束しちゃったんだから仕方ないんだ」
 謎の言葉を残し、御手洗は扉の向こうに消えた。
 約束だって? 今回の帰国の理由は、ひょっとしてそれなのだろうか。しかしいったい誰と会うつもりなのだろう。御手洗がわざわざ帰国してまで会いたい人物。私には心当たりはない。それに、その人物と先ほどの話がいったいどう関係するというのか。
 疑問だらけで残された私は、御手洗が出ていった扉を見つめたまま、最悪な一日になりそうな予感がますます増大してきたのを感じていた。
「……行ってらっしゃいませ、御手洗さん」
 両方の目がハートマークになっている小幡さんが、遅すぎるお見送りをした。
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