石岡和己のダンス

優作

3.
 翌朝、かすかに痛む頭を抱え、目覚めた。枕元の時計を見ると、AM11:00。朝方、電話のベルに一度起こされたような気もするが、ぐっすりと眠ることができ、おおむね気分のよい目覚めだった。
 ひとつ大きく伸びをして、ようやく思い出した。昨夜の御手洗とのやり取り。酔っていたせいだろうか、まるで夢の中の出来事のようで妙に現実感がない。だが、御手洗に迷惑をかけたことは確かだ。きちんと謝らなければいけない。
 しかし、御手洗自身が昨夜のやり取りを忘れている可能性もあった。自分で捨てておいて、ぼくの歯ブラシがないと大騒ぎするような男だ。もし憶えていたにしても、昨夜のことを根に持つようなことは絶対にないだろう。今回ばかりはあの健忘症に感謝したい気分だった。
 私はせいぜい腕によりをかけた朝食をつくり、御手洗を喜ばせてやろうと考えながら部屋を出た。しかしリビングに御手洗の姿はない。長旅の疲れもあるだろうから、きっとまだ寝ているのだろう。
 そう思い、朝食の支度にかかろとして、とつぜん不安にかられた。まさかすでにここから出ていってしまったということはないだろうか。訪れが唐突だっただけに、その可能性もありそうな気がした。そういえば御手洗の部屋は、いやにシンとしている。
 私はあわてて彼の部屋をノックした。返事がない。まさか──。勢い込んでドアを開けると……。なんだ、いるじゃないか。
  御手洗はこちらに背を見せ、寝巻姿のままでデスクの回転椅子に腰かけていた。彼の目の前には窓があり、穏やかな秋の空が広がっている。
 だが、どこか様子がおかしい。私が入室してもピクリとも反応しないし、ただ黙って外の景色を眺めているようなのだ。
「おい、御手洗君……」
 不安を感じながら、私はその背に呼びかけた。
「……ああ、石岡君。おはよう」
 御手洗は首だけでゆっくり振り向いて、苦しそうに言った。昨夜の陽気な御手洗は、その欠片もなく、そこにはただ鬱蒼とした表情の彼がいた。
「どうしたんだ御手洗君? 気分が悪いのかい?」
 私は心配になって言った。御手洗は、首をまげているだけでも苦しそうだ。
「いや、時差だよ石岡君。……言ってみれば精神的なね」
「えっ? ああ、時差惚けか。長旅の疲れが出たんだね。いま朝食を用意するから ちょっと待っててよ、すぐに君の好きな……」
「すまない石岡君。食欲があまりないんだ。だが、よければ紅茶を一杯淹れて欲しい。それだけでいいから……」
 消え入りそうな声、で御手洗は言う。
「わかった。でも本当にそれだけでいいのかい? 何かぼくにしてあげられることはないのか?」
「十分だよ。ありがとう」
 力ない声でそれだけ言うと、御手洗は再び視線を窓の外へと移した。
単なる時差惚けにしては、どうも様子がおかしかった。時差惚けで起こるのはせいぜい体のだるさか、眠気ぐらいのもののはずだ。それにしては御手洗の状態は悪すぎる。これではまるで鬱状態……。いや、それは早計にすぎる。昨夜は少し肌寒かったから、風邪にでもかかったのかもしれないし。まあストックホルムに比べれば、寒さもたいしたことはないだろうが……。 あれこれと思いを巡らせながら、それでも紅茶を用意するため、私はひとまず部屋を出た。
十分後、御手洗はいらないと言ったが、何か少しでも食べないと体に毒だと思い、サブレーを皿に盛り、ミルクを添えた温かな紅茶と一緒に、彼の部屋を再び訪れた。
 出た時と変わらず、御手洗はこっちに背を向けたまま、窓の外を見ている。
紅茶とサブレーの乗った盆を、彼のそばにそっと置いた。御手洗はかすかに身じろぎしたようだが、特に反応はない。その場を立ち去ることもできず、彼の背を見つめながら、どうしようかと思案していると、
「石岡君……」
 御手洗が私の方を見もせずに、ぽつりと呟いた。
「なんだい?」
 御手洗の声が小さすぎ、聞き取りづらいので、私は身を屈めて耳を近づけた。
「……降り続ける雨は、容赦ないね。われわれは身を守る傘一本さえも与えられず、ただじっと雨に打たれつづけなければいけないんだ。やがて周囲に満ち満ちた雨に、身もだえし、窒息し、おぼれ死ぬその日までね」
 きょとんとしてしまった。意味不明の言葉だ。どういうことなのか問い質そうとも思ったが、そんな言葉をさしはさめそうな余地は、彼の背中にはなかった。それで、ひょっとしたら言葉の続きがあるのかと思い、少し待ってみたが、時間の無駄に終わった。
 思いすごしであって欲しかったが、この様子からすると御手洗は、やはり鬱状態にあるらしかった。しかし私は彼の部屋にとどまることはせず、そのままリビングに出た。いままでの経験からいうと、こういう場合あまり御手洗の世話を焼いたり、かまいすぎると鬱状態が悪化することがある。こういう時は放っておいて、できるだけ普段通りに接するのがいいのだ。
 それでも、いつあの状態から回復するのかは誰にもわからない。数時間であっさり立ち直ることもあれば、何ヶ月も引きずることもある。
御手洗のことは心配だったが、私は取りあえず朝食を摂ることにした。手の込んだものを作る必要はなくなったので、買いおきのもので適当にすませることにした。
 数分後、トーストをかじりながら時計を見ると、もう正午が近かった。もう自分が食べているのが朝食だか昼食だかわからない時刻だ。朝刊を読む気もしなかったので、食事をしながらぼんやりと、彼の言った意味不明の言葉について考えた。
 「降り続ける雨」がどうのこうのと言っていたが、何のことだろう? 別に今日も昨日も雨は降ってないが……。「溺れ死ぬ」とか言っていたことを考えると、やはり何かの喩えなのだろうか。そういえば、聞き違いかと思ってさっきは尋ねなかったが、会話の中で御手洗が、精神的な時差惚けだとか何とか言ったのも気にかかる。雨と時差、何か関連があるのだろうか。
 思考が行き詰まったまま、私は壁掛け時計の秒針がチクタク音をたてるのを聞いていた。そしてわかった。御手洗の言う「雨」とは、時間のことだったのだ。
間違いではないという確信があった。彼の言う「雨」を「時間」に置き換えれば、比喩的ではあるが、意味がとれる。
 降り続ける雨は容赦ない……、御手洗の言うとおりだ。われわれの人生は、時の流れの中で無力だ。誰ひとりとして「傘一本さえも与えられず」に時の雨にさらされ、それこそ「おぼれ死ぬ」ように、やがて必ず来る終焉を迎える。
 とすると御手洗は、時間の持つ非情さについて憂いていることになる。「人生はあまりに短い!」と嘆いているのだろうか。どうも御手洗らしくない、私にはそう思えた。
「時間か、ふん! 挑むならまだしも、脅えることにその時間を費やしてどうするんだ? そんなのは徒労と大きく書き込んだプラカードだよ」
 そう言って一蹴するのが彼ではなかったか? 
だが──。とも思った。言いたかないが、われわれも歳をとったということなのか。特に御手洗のような学者タイプの人間にとっては、研究する時間はいくらあっても足りないのかもしれない。それも脳研究のような、これから本格的に解き明かされるような謎に対して、生きているうちに解答が得られないかもしれないと考えると御
手洗は、歯噛みするような思いでいるのかもしれない。
 だが、それにしても何故今なのだ──。わざわざ北欧からやって来て鬱状態におちいるのには、それなりのきっかけがあるはずだ。何なんだろう? 昨夜、御手洗がやって来てからのことを振り返ってみると、思い当たるのはただひとつだけ。レストランでのあの子供じみた私の憎まれ口。
 だが、あれは酔った上での言葉で、しかも単なる愚痴みたいなもので、御手洗が気にする必要はないし、だいたいあんなことで彼が傷ついたり、鬱になったりするはずはない──と、今までは思っていたのだが、ひょっとして違うのだろうか。彼は変わったのか?
 そういえば帰国の理由をまだ聞いてないが、もしかしてそのあたりに、御手洗の鬱の原因があるのだろうか。たとえば異国の地でなにか紛らわすことのできない哀しい出来事があって、それを癒すための帰国だったとか。もしそうなら、いきなり戻ってきたわけも説明できるし、昨夜現れた時の陽気さも、秘めた哀しみがあったからこその反動ともとれる。ひょっとすると私は、酷いことを言ってしまったのかもしれない。抱きしめられたくてやって来た子供を殴りつけるような酷いことを……。
 私は煩悶を繰り返していた。午後の時間が過ぎ去ってゆく中、それこそ何時間も。
小幡さんが、「里美が男好きだ」と言ってやってきたのは、まさにそんな状況の時だったのだ。
 これで、今日が最悪な一日になると私が予感した理由を、わかっていただけたかと思う。
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