「里美が男好き!?」
驚きのあまり私は、素っ頓狂な声で叫んでいた。目の前のソファには『パロディ・サイト事件』で知り合った小幡さんが、深刻な表情ですわっている。
小幡さんがこの馬車道のアパートに突然私を訪ねてきたのは、ある秋の日の午後だった。里美のことで相談がある、と言われ、彼女をソファにかけさせるといきなり言ったのだ。「里美は男好きだ」と──。
「間違いないと思います。私昨日の夕方、講義が終わって大学を出て行く里美のこと尾行したんです。すごく心配だったから。そしたら……」
ごくり、と私は唾を飲んだ。鼓動は速まり、体がカッと熱くなる。
確かに里美が小幡さんから男好きと誤解されているのは、『パロサイ・ホテル』の事件の時に聞いたので知っている。だが、そのことはほかならぬ里美自身から聞いた話だし、彼女はそのことをハッキリと否定したではないか。だから私も、たいして気にとめずにいたのだが……。
「そしたら里美、変な雑居ビルに入っていったんです」
「へ、変なってどんな?」
私は震える声で尋ねた。これ以上聞きたくない気持ちになってくる。
「何だか、いかがわしい感じのビルです。彼女はエレベーターに乗ったみたいだったから、私はすぐに追いかけていって、何階で降りるのかを階数表示のランプで見たんです。そして里美が降りた階には何があるのか、そばにあった案内図みたいなもので見たんです。そしたら……」
小幡さんはまた肝心なところで言葉を停めた。どうせ言うのなら、もうひと思いに言って欲しい。
「キャバレーっていうのかな? ああいうの。クラブかな? よくわかりませんけど、そういうお酒が出て女の子が接待するようなお店だったんです」
まさか、そんな……。ぼくをからかっているんでしょう? そう尋ねようとしたが、小幡さんの深刻なまなざしはそれを完全に否定していた。
「で、でも店に行ってみたわけじゃないんでしょ? 店の名前だけじゃ何ともいえないですよね?」
知らぬ間に、すがりつくような声が喉から出ていた。
「行かなくてもわかります!」
小幡さんは断言した。
「店の名前なんて忘れましたけど、派手なピンク色の文字で書いてありましたからね、間違いないです」
間違いないですって言われても……。
私ははなはだしく狼狽した頭で、それでもこう考えた。小幡さんには悪いが、そんな話は信じられない。信じたくない。変なバイトなんて絶対しないと言っていた里美が、そんな……。だいいち何のためにそんなところで働く必要があるのか。それを訊こうとすると、
「彼女大学にも、最近ブランドものの服とかバッグでよく来るんです。間違いなくあそこで働いたお金で買ってますね」
そういう返事が返ってきた。となると、ブランドものを買う金欲しさに、里美はそういう店で働いているということになる。
「そんなはずないよ、ぼくは里美ちゃんがそんな高そうな服着てるのを見たことないし、そんなことするとは思えないもの」
その点については自信があったので、わりあい強い口調で言った。
「ちっ、ちっ、石岡先生は騙されているんです! 里美はそういうお店で働いてるから簡単なんです。石岡先生を騙すのくらい、朝飯前なんです」
驚いた。舌打ちの仕方がまるで御手洗だ。そういえば里美が、小幡さんのことを女の御手洗だとか言っていたような気もする。
しかし、もしも里美が私を騙しているとしても、そのことで彼女にいったい何の得があるというのだろう。どうも小幡さんの言うことはよくわからない。
「それに、それだけじゃないんです。私が見たのは」
怪訝そうな私の様子を察したのか、説得するように小幡さんは言った。
「あ……、でも、やっぱりやめておきます。石岡先生がショック受けるといけないから」
「そ、そんな、言いかけてやめないでよー」
思わずつり込まれてしまった。女御手洗さんは話術も巧みだ。
「じゃあ言いましょうか?」
小幡さんは、ソファからぐいっと身を乗り出した。まっすぐな眼で私を射抜くように見つめる。その有無を言わせぬ迫力に私は気圧され、ただこくんと頷くことしかできなかった。
「私、ずっとそのビルを見張っていたんです。そうしたら、深夜の零時頃里美が出てきて……」
「ちょ、ちょっと待って、深夜って君、夕方からずっと見張ってたの?」
「そうですよ」
おかしなこと訊くなあと言ったふうに、小幡さんは言った。何時間も外で待っていたのだろうか。たいした忍耐力だ。探偵に向いているかもしれない。ますます御手洗っぽく見えてくる。
「とにかく! 里美が男と出てきたんです! そして夜の街に消えていったんです!」
「えーっ!」
「だから言ったでしょう、里美は男好きだって」
そう言うと、小幡さんは勝ち誇ったようにニッコリと笑った。その笑顔は魅力的だった。
でもそんな馬鹿な! 里美に限ってそんな破廉恥なことはあり得ない。それとも最近の子は、そういうことに対して抵抗感がないのか。こんなの、コンビニでバイトするような感覚でしかないのか。
いや、そうじゃない。少なくとも私の見てきた里美は、そんなふうじゃない。やはり何かの間違いだ。私を頼って横浜までやって来た里美を、私が信じてやらなくてどうするのか。
だが──。と、またふいに思った。もしも里美の働く理由が、小幡さんの言うような男好きだとか、ブランド品を買うためとかじゃなく、学費や生活費を稼ぐためだったとしたら──。
背筋の冷えるような感覚に襲われ、私は青ざめた。それならあり得るかもしれないのだった。あの龍臥亭の事件のせいで、里美の家は、私の想像する以上に経済的に追い込まれているのかもしれない。そうだとすると、都会の大学に娘を通わせる、それは大変な負担だろう。ひょっとするとセリトスに通うこと自体、親は反対だったのかもしれない。だが都会生活に憧れていた里美は、あの性格だから、そんな反対も押しきって横浜に来たのだ。お金のことは自分で何とかする、などとたんかを切って上京してきたのかもしれない。いやきっとそうだ。その結果、司法試験の勉強で忙しい里美は、短時間で高収入を得る必要にかられ、そんなバイトを……。
だが、それならそのことを何故私に隠しているのだろう? 相談してくれれば学費くらい、いつでも用立てたのに。結局私はあてにされてないということなのか。それに店から男と出てきたという話もあるし……。わからない。里美には、私の知らないもうひとつの顔があるのか。
私はひとり煩悶を繰り返していた。ふと気がつけば、小幡さんが心配そうに私の顔を覗き込んでいる。
「大丈夫ですか? 石岡先生」
「う、うん、ちょっと驚いたけどね」
本当はちょっとどころじゃないのだが、若い女性の手前、あたふたと取り乱すこともできない。必死で平静を装っていたのだ。
「でもそれも今夜で終わりです」
小幡さんが言った。
「え? どうして?」
「決まってるじゃないですか、わたしたちが里美をとめるからです」
「あ、そうか」
思いもかけない回答に、わたしはすぐに納得した。
「でもどうやって?」
「男と一緒の現場を押さえて、約束させるんです。もうこんなことしないって。里美がだめになっちゃうその前に」
小幡さんは、信念と自信に満ちた表情で言った。
里美がだめになる──。それが何を意味するのか、はっきりとはわからなかったけれど、ロングスカートに派手な化粧で、煙草を吸いながら、「おいイシオカ」と私を呼び捨てる里美の姿が一瞬浮かび、ぞっと背筋が冷えた。
小幡さんの言うことが本当にしろ勘違いにしろ、とにかくいま私が里美に会って、話をしなければならない状況にあることは確かなようだった。しかしだからといって、小幡さんの言うように現場を押さえるというのは、少々過激にすぎるような気もする。
「あの……小幡さん、ほかに方法はないのかな……」
わたしは恐る恐る言ってみた。
「ないです!」
きっぱりと、小幡さんは断言した。
「直接問いただしたって、里美に否定されたらそれまでですからね。現場を押さえるのが一番なんです」
そう言われればそんな気になってくる。私のこの流されやすい性格は、もう死ぬまで直らない。それにちょっと小幡さんが怖かった。
「……そうだよね。現場を押さえないとまずいよね……」
「じゃあ今晩一緒に、お店のあるところまで行ってくれますね?」
ここで「嫌だ」と言う勇気が私にあれば苦労はしない。私が「はい」と小さく言うと、小幡さんはホッとしたような表情をした。いかにしっかりした女性といえども、やはりひとりで行動するのは不安だったのだ。
「……ところで、だれかいるんですか? なんかさっきからガサゴソ音がしてますけど」
ソファにすわったまま、小幡さんは不審そうに室内を見渡した。その音自体はかすかなものだったが、ガサゴソ動く人の気配は、確かに先ほどからしていた。そしてそれは、数年前から空室になっている友人の部屋から聞こえていることを私は知っていた。
「うん……、実は御手洗がいるんだよ」
私はいった。
「ええっ?」
小幡さんの驚くさまを見ながら、私は思っていた。今日はいよいよ最悪な一日になりつつあるな、と。 |